2005/09/28

ドラマチック


  この春から夏に掛けて、TBSで、『幸せになりたい』 というドラマを放送していました。 深田恭子さんと松下由樹さんのダブル主演で、テレビ局のドラマ制作部を舞台にした人情劇です。 ドラマの出来そのものは、しょーもないレベルで、序盤から中盤に掛けて、松下さんの演技が光っていた点を除けば、頭に来るほどお粗末な代物でした。 深田さんなど、何の為に起用されたのか分からないくらい見せ場のない役でした。 大体、借金を抱えた女子高生が、病気の母親と幼い弟二人の面倒を見ながら、ドラマ制作の仕事なんか出来るわけが無いでしょうに。 いくら給料を貰ったって、生活費と入院費で全部消えてしまうのは明白。 もう、この設定にしてからが、このドラマがいい加減な思いつきで作られた事の証拠です。

  ちょっと脱線しますが、ドラマでも映画でも、物語を作る上で、経済学的な配慮を怠ると、非常に陳腐な話が出来てしまいます。 ごく最近、フランス語ブログで名前が出ていて、懐かしいと思ったんですが、20年ほど前に 『めぞん一刻』 という漫画・アニメがありました。 覚えている方もかなりいるでしょう。 ご存知の通り、ベタベタの日本物なんですが、なぜか、ヨーロッパの一部で放送され、人気になったらしいのです。 まあ、それはさておき・・・。 あの話には、何とも計算が合わない設定がありました。 一刻館のような木造のボロアパートに、住み込みの管理人がいるのはおかしいだろうというのです。 人一人雇うとしたら、最低でも20万円は払わないと生活できませんが、入居しているのは4世帯ですから、家賃が5万円としても、管理人の給料だけで消えてしまう事になります。 東京の固定資産税など到底払えますまい。 シロアリ駆除の費用だって、一体どこから捻出したのやら・・・。 音無家から費用を補助しているとしたら、響子さんは、とんだ 『お荷物寡婦』 という事になってしまいます。

  おっと、つい脱線が過ぎました。 話を 『幸せになりたい』 に戻します。 さて、このしょーもないドラマですが、全体的に嘘臭い設定が多い中で、興味深い情報も含まれていました。 それはテレビ局のドラマ制作の内情です。 自分達が普段経験している事を描いているだけあって、その部分だけは、際立ってリアルになっていました。 その中で、びっくりしたのが、ドラマ制作部の部長や局長が、ドラマの内容について、全く無知・無関心だという事でした。 原作本は途中までしか読まない。 脚本の良し悪しは分からない。 世間の流行には疎い。 完成したドラマを見ても、寸評すら出ないほど批評眼がない。 頭の中にあるのは視聴率が取れるかどうか、それだけだというのです。 たぶん、この部分、テレビ局の内部批判を込めて盛り込んだものだと思うので、実際にこんな有様なのでしょう。

  黒澤明監督の伝記を読むと、映画会社の人間が、映画の内容について何も分かっていないという記述が頻繁に出てきますが、テレビドラマでも事情は同じなんですね。 自分達が企画して作らせている作品であるにも拘らず、内容の吟味に関しては素人以下なのです。 なるほど、日本のドラマがつまらない理由がよく分かります。 原作の知名度に頼らなければヒット作が作れない理由はここにあったか。

  韓国ドラマを見ていない方は、ピンと来ないと思いますが、日本のドラマは確かにつまらないです。 私も比較するまでは、分かりませんでした。 韓国ドラマには、ドラマの方で視聴者の興味を引っ張っていく自立性がありますが、日本のドラマは、視聴者に甘えている所が多分に見受けられます。 見ていると、「たぶん、こういう纏め方にするんだろう」 と予測できてしまい、本当にその通りになります。 「来週はどうなるんだろう!」 などとハラハラする事はまずありません。 ドラマの展開に、ある一定の枠があり、そこから出ないのです。

  もちろん韓国ドラマにも一定のパターンがありますが、それは物語の設定レベルに留まり、ストーリー展開は到って自由です。 だから、どうなるか先が分からず、ハラハラドキドキする事になるわけですな。 日本のドラマも、昔はそうでしたが、トレンディードラマが一世を風靡した頃から、枠が出来てしまい、見るに値しないほどつまらない物になってしまいました。 ドラマにとって最も重要な、『ドラマチックな展開』 を失ってしまったのです。

  現在、日本のドラマで人気がある作品というと、原作が話題になっているか、出演者に人気があるかのどちらかです。 ドラマ自体は、単に原作を映像化したというだけの意義しか持っていません。 若い女性のドラマ評を聞いていると、主演男優が好きか嫌いかで作品の良し悪しを決めている事が多いですが、そんなのは批評者として資格外ですな。 出演者は確かに重要な要素ですが、本当に良いドラマは、誰が出演しても、やはり良いものです。 『冬のソナタ』 を、イ・ビョンホンさんで撮っても、決して駄作にはならないだろうといえば、納得してもらえるでしょう。

  何でも、フジテレビと日本テレビでは、この二年間ほど続けてきた韓国ドラマ枠を、この秋から廃止するそうです。 局の人間の言い分によると、「韓ドラブームはもう終わる」 「放送したい作品がなくなった」 のだそうですが、『幸せになりたい』 の部長・局長のような人物が言っている言葉だとすれば、とても真に受けるわけには行きません。 韓国ドラマ枠を廃止する為の条件があるとしたら、日本のドラマが韓国ドラマ以上に面白くなる事だと思いますが、そんな気配は微塵も覗えないではありませんか。 相変わらず、視聴者に甘えた作品ばかり作っています。 「ね、この話、面白いでしょう? 何となく共感できるでしょう?」 「10回しかないんだから、こういう終わらせ方になっても仕方ないって、分かってもらえますよね?」

  実際問題として、日本のドラマを韓国へ持っていって放送しても、たった1クールに過ぎないにも拘らず、とても最後まで見てもらえないでしょう。 昨年、韓国の衛星放送で試験的に日本ドラマを流した所、最も人気が高かったのは 『ごくせん』 だったのですが、視聴率はたった1パーセントだったそうです。 これは、日本のドラマしか見ていない人からすると、「何かおかしいのではないか? 政治的な背景があるのではないか?」 と疑いたくなる数字ですが、韓国ドラマと日本ドラマを両方見ている人は、「ああ、そんなもんだろうねえ。 無理もない。 あはははは!」 と、あっさり納得するに違いありません。 彼我の差はそのくらい大きいです。

  韓国ドラマは、短くても20話はあるので、ちょっと時間を割いて見るというわけには行かない為か、見ない人は、全く見ていないという事が多いです。 日本の芸能人などで、見ていないのに批判をする者が多いのは困った事です。 最低限、『冬ソナ』 くらいは見ていなければ、あれこれ批判する資格などありますまい。 そして、『冬ソナ』 を見て、尚且つ韓国ドラマを批判する者がいるとしたら、その人物は、ドラマが全く分かっていないのです。 理由も無しに、社会現象になるほど人気が出たわけではないのですよ。

  日本のテレビ局のお偉方にも、その種の資格外批判者が大量に巣食っているのでしょう、きっと。 鑑賞眼がないのだから、いい作品など作れるはずがありません。 まだまだ日本ドラマの冬の時代は続くと思われます。

2005/09/24

外来語の発音


  外来語の氾濫には、とかく批判が集まりがちですが、ほんの10年ほど前まで批判の根拠としてよく使われたのが、「隣の韓国では、日本のように無闇と外来語を使ったりしない」 という言い方でした。 これは当時としてはそれほど間違っていない情報だったんですが、現在、韓国朝鮮語を習っている方々は、パソコンやインターネット関連用語を中心に、膨大な量の英語系外来語が使われている事を知っているので、些か納得が行かない所があると思います。

  韓国での外来語状況も変わりましたし、それより何より、日本側で流布する韓国情報が桁違いに増えたので、この種の食い違いが出てくるのは致し方のないところです。 そういえば、韓流ブームが来る前までは、韓国朝鮮語の事を「ハングル語」などと呼んで平然としているテレビアナウンサーがうようよいましたが、今ではそういう初歩的誤解はすっかり影を潜めました。

  さて、韓国朝鮮語を習っていると、すぐに気付くのが、外来語の発音が日本語のそれと違うという事です。 ほとんどが英語系外来語ですが、英語の原音に非常に近い発音をします。 ほとんど、『聞こえた音を、そのままハングルで記した』 といった感じになっています。 日本人の感覚からすると、『外来語の発音は、その国風に変えられてしまうもの』 という先入観があるので、原音主義が徹底している事に、少なからず驚かされます。

  しかし、よくよく考えてみると、原音に忠実に音写する方が当然なのであって、別の発音に変えてしまう日本式の方がおかしいような気がします。 わざわざ手間を掛けてそんな事をやっても、原音が分かりにくくなるだけで、いい事は何もありません。

  たとえば、猿でも知っている例として、助動詞の 『can』 ですが、日本語では 「キャン」 と読みます。 もう他に読み方など存在しないといった狂信性で、日本人全員が 「キャン」 と言い切ります。 しかし、原音に従うならば、「ケン」 と発音した方がずっと近いです。 一体どこから半母音が湧いて出たのか、不思議でなりません。 「ケン」 が発音しにくい音だから避けたというなら、まだ分かるんですが・・・・「ケン」 でしょ? 発音しにくいですかね?

  最近になって入って来た単語でも、発音を変えてしまう癖は変わりません。 『property』 は 「プロパティー」 と言いますが、これも 『プラポティ』 にした方が原音に近いです。 『l』 と 『r』 や、『tr』 『st』 のような、カタカナでは正確に書き表せない物は仕方ないとして、カタカナで書けるのに原音からズレているのは、奇奇怪怪な現象です。

  なぜ、こんなズレが起こるのでしょう? 中国語では、外国語の単語を音写する場合、すべて漢字を当てるので、発音にズレが出るのは致し方ありません。 しかし、カタカナは、性能は悪いとは言え、一応表音文字ですから、何もわざわざ音を変えて、原音を分かりにくくする必要など無いはずです。 日本は、何かと規制が好きな国ですが、言語に関しては割と中立主義を保っており、過去に外来語のカタカナ表記について、国が指針を作って国民に押し付けたという事はありません。 また、民間人士の中に、カリスマ的な人物がいて、「外来語の表記はかくあるべし」 と民衆を誘導したという事実もありません。 自然発生的に、こうなったのです。 これは 『言語の社会現象』 の一つなんですね。

  私の想像では、明治以来、英語学習に悪戦苦闘して来た日本人が、単語の綴りを覚えようとして便宜的に使っていた読み方が、そのまま定着してしまったのではないかと思われます。 明治時代、欧米文化の導入に当っては、外国語で書かれた原文を日本語に翻訳する事が急務だったわけですが、その為には、正確に発音する事よりも、書かれた物を読む能力が優先されました。 とにかく単語を覚えなければ始まらないわけです。 確かに、綴りを暗記する為には、たとえば、『national』 を 「ネショノル」 と覚えるより、「ナショナル」 とやってしまった方が覚えやすいでしょう。

  ところが、ここが面白いのですが、全面的に綴りに忠実というわけでもないのです。 もし、綴り優先というなら、よくテスト前の中学生が口ずさんでいるように、『baseball』 は、「ベースボール」 ではなく、「バセバルル」 と読んでしまった方が、綴りの復元がずっと容易です。 ここが、自然発生した現象の中途半端なところで、綴りと発音の中間をうろうろ彷徨っているんですね。

  さて、このズレですが、放置しておくのは勿体ないといえば勿体ないです。 別に日本人が英単語をどう発音しようが、英語圏から怒られる事もなければ、誉められる事もありません。 つまり、手前勝手にやってしまっていい領分なのです。 それならば、どうせ覚える労力に変わりはないのですから、原音に忠実な方が、後々英語を学習する際に得のような気がします。 綴りが覚えにくくなるといっても、英語母語話者はみんなそれで覚えているわけですから、日本人にも出来ない事はないでしょう。

  一方、言語学的に見れば、せっかく起こっている珍現象なのですから、放っておいて今後の成り行きを楽しむという態度も取れます。 自然発生的にズレたのなら、自然発生的に矯正されて行くかも知れませんし、そうなる前に英語の影響力が落ちて、英語系外来語そのものが減り始めるかもしれません。 私としては、こちらの方が興味があります。

  ちなみに、欧米系外来語で英語の次に多いフランス語でも、この種のズレは多く見られるそうです。 『ミルフィーユ』 や『オードブル』 など、すっかり日本語化していますが、カタカナの発音そのままで聞くと、全く別の意味に取れてしまって、苦笑を禁じ得ないらしいです。 しかし、全般的に見ると、フランス語系外来語は、原音に合わせていると言えます。 これは、フランス語の発音と綴りの規則性が、英語より高い為でしょう。 ドイツ語系やロシア語系の外来語も事情はほぼ同じです。 英語の発音と綴りのズレは、欧米系言語の中で特別大きいのです。

2005/09/21

滅び行く見合い


  『フランス人が日本人によく聞く100の質問』

  図書館のフランス語関連書コーナーで見つけ、何気なく借りて来たこの本ですが、発行年が、1996年です。 もし、テレビ放送される映画の話だったら、96年製作というのは、まだ新しい作品の口という事になります。 もし、パソコン関係の書籍だったら、96年発行は、既に骨董品で、読むだけ時間の無駄という事になります。 9年前と言うのは、微妙な古さなんですね。

  で、この本はどうかというと、日本の風俗習慣を紹介するという内容なので、大半の記述は、今でもそのまま読む事が出来ます。 携帯電話については全く触れていませんし、インターネットの事も出てきませんが、それは、96年ですから、仕方ないですな。 とはいえ、その二つを除けば、日本社会は、9年前とそれほど変化していない事が、この本を読むと再認識できます。 地理・自然、家庭、生活、飲食物、住居、社会、政治経済、文化、宗教、スポーツ、趣味・娯楽と幅広く紹介されていますが、まあ、ほとんど同じですね。

  ところが、技術の進歩と関係のない分野で、一ヶ所だけ様変わりしてしまった項目があるのを見つけました。 それは、『見合い結婚』 です。 確かに10年くらい前までは行なわれていましたが、今は全くと言っていいほど、聞かなくなりました。 たとえば、会社の同僚の中に、この十年の間に見合いで結婚したという者は一人もいません。 私の父が招かれて出席する親戚の結婚式でも、なれそめが見合いという例は皆無です。 見合い結婚以前に、見合いそのものが行なわれなくなったような気がします。

  昨年、リメイクされて話題になった 『白い巨塔』 というドラマの中で、主人公が後輩の青年医師に見合いの口を世話する場面がありました。 確か、「医者は忙しくて女性と付き合っている暇がないんだ。 見合い結婚は珍しい事じゃないよ」 とかいうセリフがありました。 しかし、このセリフ自体が、原作にあった物かどうか怪しいです。 時代の変化で、見合いという習慣が消滅してしまったので、辻褄併せの為に、わざわざ入れた言い訳のように聞こえます。 実際、このセリフが添えられていても尚且つ、「今時、見合い~?」 と眉を寄せたくなるような違和感がありました。

  昔は、親戚や勤め先に一人や二人は 『世話焼き』 タイプの人がいて、適齢期に差し掛かった独身者がいると、勝手に見合いの口を探して来て、うるさいくらいに薦めたものです。 しかし、そういう世話焼きの人達がいなくなってしまったのです。 これは恐らく、見合いの成功率の低下が大きく影響しているものと思われます。 今から30年前以前であれば、見合いさえさせれば、後は家同士で話を進めて、当人同士の交際などまったくせずに結婚式に持って行ってしまうという事が出来たのですが、恋愛結婚が主流になってからは、こういう親任せ仲人任せの結婚というのが嫌われるようになりました。 「少しお付き合いしてから・・・・」 が出てくるようになったのです。 ところが、これが、よくないのです。

  そもそも、見合いというのは、恋愛結婚の補完として、自分で相手を見つけられない消極的な人間の為に用意されていた制度ですから、当然、対象者は、異性と付き合った経験が無い者同士という事になります。 どう付き合えばいいのか、ノウハウを知りません。 また、異性というのは興味の向いている方向が違っていて、話し相手として、同性ほど馬が合うものではありませんから、往々にして、「この人と一緒にいても、全然面白くない」 という気分に陥り易いです。 一旦そう思ってしまうと、恋愛のように下心からスタートしていない分、急速に嫌気が差してきます。 結果、「付き合ってみたけど、性格が合わなかった」 で、ご縁が無かった事になります。

  実際に結婚している方達は、恋愛と結婚がまったく別物で、性格が合わないけど、うまく行っている夫婦の例をいくらでも知っていると思います。 私の父の兄弟四人は、全員見合い結婚ですが、奥さんと性格が一致している人など一組もありません。 「性格なんぞ食い違っていても、結婚させてしまえばどうにかなるもんだ」 という事が分かっていたからこそ、見合い結婚制度が成り立っていた訳ですが、なまじ恋愛結婚の真似をして、交際などさせるようになった為に、成功率ががくんと落ちてしまったのです。

  成功率が落ちると、世話焼きの人達は、だんだん世話を焼くのが嫌になってきます。 うまく行けば、感謝されるし、尊敬も受ける、その上若干の実入りもあるので、進んでやるのですが、失敗ばかりでは、エネルギーを費やすのが馬鹿馬鹿しくなって来ます。 30年前から10年前にかけて、そんな傾向が徐々に強まり、10年ほど前に、見合いはとうとう絶滅したんですな。

  現在20代前半くらいの人で、日常的に異性と交際していない人達にご注意申し上げますが、「なーに、30歳過ぎたら、親か親戚が、見合いの口を持ってくるだろう」 と期待して、おっとり構えているのなら、すぐに考えを改めた方が良いです。 断言してもいいですが、絶対に来ません。 現在ですら皆無に近いのですから、今から10年後に期待する方がおかしいです。

  ぶっちゃけて言ってしまうと、現在20代前半で、異性と交際していない人は、20代後半になっても、そういう機会はまず訪れないと思います。 30代になれば尚更です。 性格はどんどんひねて行きますし、容姿はどんどん衰えていくのですから、より条件が良かった頃でも駄目だった事が、より条件が悪くなってからうまく行くなど、考えられないではありませんか。 そして、頼みの綱の見合い制度は既に存在しないと・・・・。 つまり、20代前半で異性と交際していない人は、もう結婚は出来ないと考えて良いと思います。 極端? 大袈裟? 脅かすな? いえいえ、私は至って堅実な分析をしているつもりです。 嘘だと思ったら、30代になるのを何の努力もせずに呑気に待ってみるのが良いでしょう。 気づいた時には、手遅れですが。

2005/09/18

名前と公共性


  ハリケーンの 『カトリーナ』 は、甚大な損害を齎しました。 こういう桁外れの被害が出ると、洒落にならないのは、『カトリーナ』 という名前の人達でしょう。 ハリケーン・カトリーナで家族を失った人達が、カトリーナという人物に出会ったとして、気分が良いという事は決してないと思います。

  過去に嫌な思いをさせられた相手と同じ苗字の人物に出会うと、その人に何をされたわけでもないのに、何となく不快な気分になりますが、数万人に損害を齎したハリケーンと同じ名前では、数万人からそういう目で見られる事になります。

  どうしてまた、ハリケーンに人の名前を付けるようになったかが分かりません。 それに倣って、東アジア・太平洋地域でも、台風に名前を付けようという提案があり、既に実行に移され、使用している国もありますが、悪い習慣を真似たとしか思えません。 さすがに人名は不適当と思ったのか、動植物名を中心に選ばれていますが、動物だろうが植物だろうが、大災害に自分達の名前をつけられたのでは、イメージが損なわれる事は避けられませんから、迷惑この上ないでしょう。 恐らく 「名前をつけた方が覚えやすいから」 という理由で真似たのだと思いますが、そもそも、個別のハリケーンや台風を覚え易くする必要性がありますまい。 覚えてどうする? 普段は番号で呼び、記憶に留めなければならないような甚大な被害が出た場合に限り、『伊勢湾台風』 のように後から名付ければ充分であって、来る前から 『愛称』 を付ける必要など全く無いと思います。

  さて、ここからが本題なのですが・・・・。 ハリケーンだけでなく、欧米では、地名などに人名を付ける習慣がありますが、中国文化圏、特に日本の感覚では、公共の事物に個人名を付ける事には、強烈な抵抗感があります。 たとえ、どんな偉人であっても、例外はありません。 個人名を出さない方が、より多くの人々に抵抗感無く受け入れてもらえるという考え方をします。

  聞く所によると、神奈川県茅ヶ崎市には、『加山雄三通り』 や 『サザン通り』 などという地名があるそうですが、観光目的の冗談半分である事は明白です。 恐らく、地元の住民は全く使わず、観光客が口にするのをせせら笑っていると思われます。 南極観測船の名前は、初代 『宗谷』、二代目 『ふじ』 までは何の問題もありませんが、三代目の船名が 『しらせ』 だと聞いた時、言いようのない違和感に襲われました。 日本最初の南極探検を行なった白瀬矗氏の名前を取ったわけですが、元来、日本で船名に人名を用いるのは、せいぜいヨットまでです。 あくまで個人の領域内であるから許されるのであって、国が所有する船に個人名を付けるのは、どうにも戴けません。 白瀬矗氏は探検家として敬服に値する人物なのですが、それとこれとは別の問題です。 誰がつけたのか? 誰も反対しなかったのか? 今でも非常に不思議です。

  法則名に発見者の名前をつける習慣には、そうする事によって発見者の功績を後代まで伝えるという目的もあるようですが、発見者もそこまで欲を掻く事はありますまい。 たとえば、『フレミングの左手の法則』 という名前ですが、フレミングという人が発見した事は分かっても、この名前にそれ以上の情報量はありません。 別にその事でフレミングに思いを馳せるという事もありませんし、特別に尊敬しようという気にもなりません。 発見と言えば、車輪の発見などの方が遥かに重大ですが、発見者の名前などついていなくても、車輪のありがたさは誰にでも分かります。

  ロシアではソ連崩壊後、共産党指導者の名前をつけた地名を片っ端から引っぺがして旧名に戻しましたが、人物の評価などは、時代時代で変わるものですから、最初から用いないようにした方が、混乱が起きなくて済みます。 イラク戦争の時、米軍が 『サダム・フセイン空港』 を占拠した後、『バグダッド空港』 に名前を変えて溜飲を下げていましたが、その前に 『ジョン・F・ケネディ空港』 をどうにかせえよと呆れましたっけ。

  公共の事物に人名を付けるのは、それが特定個人名であれ、一般的な名前であれ、決して誉められた習慣ではないと思います。 こういう事は、欧米の方が徐々に改めるべきなのであって、他の地域が真似るなど、本末転倒、大変馬鹿げた事だと思います。

2005/09/14

オープンカー

BMW Z3  オープンカーは、ロードスター、コンバーチブル、スパイダーなどとも呼ばれます。 あの屋根が畳める車の事です。 時折、無性に、あの種の車に乗ってみたくなる事があります。

  はっきり言って、日本の環境にオープンカーは不適です。 雨が多い上に、スコールのように定期性が無く、不意打ち的に降るので、屋根を開けっ放しで乗っていられません。 降りそうな時は早目に屋根を掛ける必要がありますが、そんなマメな事をするのは最初の内だけで、大抵の人は、開け閉めの労を嫌って、屋根を掛けっ放しで乗るようになります。 通勤に使っている人などは、ほぼ100%締めっきりです。 私は乗った事が無いんですが、あのキャンバス地の屋根は、決して快適なものではないらしいですね。 言わば、雨の日にテントの中で不安な夜を過ごしているようなものですから。

  また晴れた日でも、屋根を開けて走っていると、埃や汚れが凄いらしいです。 私はバイクに乗っているから分かりますが、服なんか洗濯すると水が真っ黒になります。 オープンカーも同じで、半日ドライブして帰ってくると、体がベタベタして、風呂に入らなければいられなくなるそうです。 本来はイタリアのように乾燥した気候の土地で楽しむ車なんですな。

  それでも、乗りたいと感じるのは、屋根を開けて走っていると、とにかく目立つからです。 私ももう結構な歳ですから、そんな自己顕示欲は枯れ果てたはずなんですが、心の片隅に人目を引いてみたいという気持ちが残っているんですねえ。 実際、周囲のドライバーや歩行者の目がオープンカーに集中する光景はよく目にします。 オープンカーを買っただけでは注目に値しませんが、本来日本に不向きであるにも拘らず、屋根を開けて乗る勇気に、粋を感じるんですな。

  その代わりと言っちゃなんですが、身だしなみには気を付けなければなりません。 バイクの場合、ヘルメットで顔が隠れますし、服も小汚い格好が許されますが、オープンカーに乗るには、まず紳士でなければならず、周囲の好奇な視線を満足させる『伊達』が要求されます。 細かい事を申さば、ポロシャツに半ズボンで乗るような車ではないのです。 少なくとも日本に於いては。 挙措も大切で、ラジオを聴いてゲラゲラ笑うなどオープンカーの運転手としてあるまじき行為。 音楽を聴くのも控えるべきでしょう。

  やはり、オープンカーを持つなら、セカンドカーでしょうねえ。 月極め駐車場に停めておくような車ではありません。 自宅に二台分の駐車スペースがあるのは当然として、屋根も壁もあるしっかりした車庫に入れたいものです。 天気のいい日に、ドライブやちょっとした買物の目的だけに使えば、より粋です。 通勤に使うなどというのは以ての外ですな。 ええい、分を弁えよ、貧乏人どもめが!
 オープンカーに乗るなど一億年早い!

ホンダ・ビート  巷で最も多く見るのは、何といっても、ユーノス・ロードスターです。 このほどフルモデルチェンジして、三代目になりましたが、未だに道路上では初代が圧倒的に多いです。 初代は世界的なヒット作になっただけあって、大量に出回っているんでしょうね。 二人しか乗れない割と小型の車なのに、値段が高い事でも有名になりました。 三代目になっても、相変わらず高価で、最低グレードでも220万円します。 220万といえば、セダンなら、マークXクラスが買える値段ですから、ちょっと高すぎるような気もしますが、マツダはこの車をブランド品として考えているのでしょう。

  昨今は『メタルトップ』といって、金属の屋根が開閉するものがあります。 ベンツのSLKは有名ですが、プジョーの206CCやトヨタのソアラなどもそうです。 ボタン一つで開閉しますから便利この上ないですが、値段が高すぎるのがネック。 その中で、ダイハツのコペンは手頃な値段です。 徳大寺有恒さんが、ベタ誉めしていましたから、本当に面白い車なんでしょう。 実際、コペンのシルバーあたりが、屋根を開けた状態で店の駐車場に停められているのを見たりすると、実にメカニカルな印象があり、「ああ、こりゃ、粋だなあ」と感じ入ります。

  ただ、私としては、オープンカーはオープンで使うべきだと思うので、メタルトップは欲の掻き過ぎではないかと思います。 ユーノス・ロードスターの三代目は幌の屋根を乗ったままの状態で畳めるらしいですが、そのくらいで充分なんじゃないでしょうか。

  私は貧乏人である上に、由緒正しい吝嗇家なので、今の所、オープンカーを買う予定は全く無いですが、一生に一度くらいは乗ってみたいものだと夢見ています。

2005/09/11

選挙の機械的判断法


  選挙というのは、争点がはっきりしない時は、有権者を悩ませるものです。 ある一つの事柄について、是か非かというなら、選択は簡単ですが、二つ以上の事柄の優先性を決めよと言われると、急に分かりにくくなります。 勢い、「考えるのが面倒だから、選挙には行かない事にしよう」 と思ってしまう人が多いと思います。 でも、そういう時に、機械的に判断する手法が無い事も無いのです。

  今回の選挙で与党側が示している争点は 『郵政民営化』 ですが、郵便局員でもない限り、この法案の良し悪しは判断しにくいです。 この法案が通ると、郵便局員は困るわけですが、郵便局員でない者にとっては、郵便局員の利害の為に法案に反対する理由は無いわけで、いくら大音声で反対を呼びかけられても、白けるだけです。 山奥の村から郵便局が消えてしまうとも言いますが、これまた山奥に住んでいない者にとっては無関係な事です。 有権者の大半は、郵便局員でもなければ、山奥在住者でもない事を考えると、野党や与党内の造反派は、ちと説得方法を間違えているのではないかと思います。

  一方、新聞の投書欄などに載る郵政民営化賛成意見の中で目に付くのが、過去に郵便局でぞんざいな扱いを受けた恨みから、民営化を歓迎するという意見です。 具体的にこんな事をされたと書いて、感情的な判断である事を隠そうともしないから、何だか笑ってしまいます。 私も郵便局では、見下すような扱いを受けた経験がありますが、だから潰せとは言いません。 動機が意趣返しでは公論になりますまい。

  小泉政権には、周辺諸国外交の行き詰まりという問題もあります。 選挙で与党が勝ったら首相の靖国参拝を再開するというなら、当然反対しますが、選挙の争点になっていないので、再開するかしないかがはっきりせず、判断のしようがありません。 また、最大野党の議員の中にも、堂々と参拝している者がいますから、尚更争点にならないのです。 どっちを選んでも良くないというわけですね。

  年金問題や増税問題もありますが、こちらはますます分かりません。 この二つの問題の要点は、つまるところ、「国に金が無い」 の一語に尽きますが、国に金が無ければ、国民から集めるしかないわけで、方法に違いがあっても、与党も野党もやる事は同じでしょう。 睨めっこしていても、国債の発行額が減るわけではないですから。 結局、取られるのです。

  こう見てくると、どちらを選んでいいのか、大いに悩む所です。 さて、そこで、『機械的に判断する方法』 が登場する事になります。 なに、ちっとも難しい事ではありません。 

≪選挙の時は、常に野党に投票する≫

  というものです。 偏ってる? いえいえ、長い目で見れば、偏っていません。 たとえば、A党が与党の時の選挙があったら、必ずB党に投票するわけですが、その結果B党が与党になったら、次の選挙では、野党のA党に入れる事になるので、どちらにも偏らない事になります。 野党が複数ある場合、どの野党でも構いません。 とにかく、野党に入れていさえすれば、政権交代が繰り返されるので、バランスが取れるのです。

  この方法、余りにも単純な事なので、常識レベルで浸透しているかと思いきや、毎回の国政選挙で棄権者が数割に上る所を見ると、案外知らない人が多いようです。 学校の教師でも、親でも、先輩でもそうですが、新しく選挙権を得た青年から投票の仕方を尋ねられた時、こういう機械的な手段があるとは教えません。 自分の支持している政党や候補に反対票を入れられると困るので、余計な事は言わないんですね。 「それは自分で決めなさい」 といって突き放します。 結果、政治に興味がない青年達は、判断が出来ず、みんな棄権してしまうわけですが、せっかく手にした権利なのに、むざむざ捨てるのは勿体ない話です。

  民主主義というのは、バランスが大切です。 バランスさえ取っていれば、細かい事は気にしなくてもいいと断言出来るくらいです。 特に、成長が止まって衰退期に入った国では、開発独裁の必要性も無いわけで、与党がころころ変わっても、さしたる支障はありません。 はっきりと支持する政党がある人は別ですが、そうでない人、どうでもいい人、どこに入れていいか分からない人、そんな人達はこの手法を試してみる事をお勧めします。 絶対の自信を持って言いますが、機械的に判断したせいで悪い結果になるという事はありませんから、安心してどうぞ。

2005/09/07

読書感想文


  私は新聞の投書欄をよく読みます。 所詮、一般読者の意見ですから、ネット上に溢れる個人的な文章と同じだろうと思うかもしれませんが、実は、重大な違いがあるのです。 それは、新聞記者が、取捨選択をしているという点です。 見かけは読者の意見ですが、実はその新聞社がどういう考えを持っているかを如実に表わしているんですな。

  投書欄のいい所は、意見が短くまとまっている点です。 社説に代表されるように、とかく新聞記者は情報量もないのに、だらだらと長い文を書きたがるものですが、読者は文を磨き上げてから 『作品』 として投書するので、締まりのいい文になるのです。 新聞記者も、読者を見習って、他の新聞社の投書欄に、投稿してみればいいと思います。 たぶん、ほとんど没になりますから、自分の実力の程度がよく分かるでしょう。

  ただ、投書の内容に関しては、お世辞にも誉められないものが多く見受けられます。 あくまで個人の意見ですから、あまり厳しくケチをつけるのも野暮ですが、「こりゃ、根本的な思い違いをしてるんじゃなかろうか?」 という物もよく見ます。 何度も書いていますが、日本人は論理に弱いので、理詰めで意見を纏めようとすると、変な方向へ逸れて行ってしまうんですな。

  たとえば、先日読んだ投書ですが、

≪親戚の小学生が、学校から読書感想文の宿題を出されたが、原稿用紙四枚分の内、後ろの二枚分がどうしても書けずに困り果てている。 読書感想文を書かせるために読書をさせるのは拷問だ。 そんな事をしていたら、読書の楽しみを奪ってしまう。 学校は感想文を書かせるより、本をたくさん読ませる事を考えるべきだ。 読書をした後で、子供が自発的に感想文を書くのが望ましい≫

  原文そのものではありませんが、大体こんな内容でした。 だけど、この意見、何かおかしいですよね。 この人がこの文を書いた動機は、単に 「親戚の子供が困っているのが不愉快だ」 という所から出た物と思われます。 そして、その責任を学校に押し付ける事で、社会問題化させ、「自分の親戚の子供はちっとも悪くないのだ」と開き直りたいのでしょう。 だけど、この人の提案通りに、感想文の宿題を無くせば、親戚の子供が読書好きになるという事は考えられません。 何も読まず、感想文も書けないまま大人になるだけです。 肝心の 『読書をさせる方法』 について何の提案していないのは、卑怯というものでしょう。

  そもそも、この世の中には、感想文が苦手な子供ばかりではありません。 三度のメシより好きという子供もいるのです。 感想文を取り上げられたら、学校で誉めてもらう機会が無くなるという子供もいます。 感想文が好きという子供は、当然の事ながら、読書が好きで、既にかなりの量を読みこなしている子供です。 読んでいるから、書けるようになるのであって、書けるようになりさえすれば、感想など無限に出て来るものです。 原稿用紙四枚など少な過ぎるくらいです。 この投書がおかしいのは、読書を薦めていながら、感想文は書かせるなと言っている点です。 自発的に感想文を書く? そんな奴はおらんやろ? 学校に注文をつけるより先に、自分の親戚の子供に読書をさせる方法を考えるべきでしょう。 そんな方法があればの話ですが。

  まあ、およそ、読書というものは、習慣にしにくいものです。 少し読み出せば、この世の知識というものが、ほとんど書物によって伝達されるものだという事が分かるので、進んで読むようになりますが、そこまで到達するのは、ほんの一握りでしょう。 漫画止まり、雑誌止まり、大衆小説止まり、純文学止まり・・・・といろいろありますが、雑誌止まりが大半を占めるんじゃないでしょうか?

  この投書者が、親戚の子供に読書をさせるのは、ほぼ不可能です。 本を送っても本棚で埃を被って終わりでしょう。 まして、個別に本を送る事など出来ない学校側が、子供に読書を薦める方法などありません。 そう考えると、読書感想文を宿題に出すのは割とうまい手と言えます。 感想文を書かなければならないとなったら、嫌でも読むからです。 苦しみながらでも何冊か読めば、後はぐっと楽に読めるようになるので、強制的に読ませるという手段も満更捨てたものではありません。

  この投書者、まず最初に、自分に出来る事と出来ない事を考えるべきなのです。 次に学校に出来る事と出来ない事を考えなければなりません。 より条件が良い自分にも出来ない事を、より条件が悪い学校に出来るわけがないではありませんか。 新聞への投書として体裁を整える為に、社会問題化させたのだと思いますが、考えが足りなさ過ぎて、限り無く難癖に近いです。

  また、この投書を選んだ記者も記者です。 選ぶ投書によっては、自身の論理力レベルを疑われるという事を肝に銘じておくべきでしょう。 昨今の新聞記者は、文章こそ人並みに書けますが、論理力の方は低下が著しく、言論で食っているのだという意識が稀薄なようです。

2005/09/03

EUの 『E』


  2005年10月に始まる予定だった、トルコのEU加盟交渉ですが、ここへ来て、フランスやドイツから異論が出ているらしいです。 トルコがキプロスを承認しようとしない事が直接の発端になったようですが、それはあくまで口実で、どうも、EUの拡大に対してEU内部から拒否反応が出ている事が背景にあるようです。 トルコの加盟には前々から悶着が続いてきましたが、ようやく前進するかと思っていたら、また躓いたようで、外部のEU観察者としては、苦虫を噛み潰さずにはいられない気分です。

  EUは、現在地球上に存在する唯一の 『王道型国家(連合)』 です。 『王道』 の反対は 『覇道』 ですが、『覇道型国家』 は例が多いので、どちらかというと、『覇道』 の方が分かり易いかもしれません 主に軍事力で威嚇して外国を従わせる考え方で、『帝国主義』 とほぼ同義と言っていいです。 『王道』 はその反対で、『王者の徳』 で外国を引き寄せる考え方を言います。 どちらも中国文明の世界観にある概念ですが、現在の世界情勢の分析にもよく当てはまります。 もちろん、EUの場合、王が治めているわけではありませんが、人権尊重、民主主義、協調主義、多文化多言語主義といった魅力が、周囲の国々を引き寄せているという点で、『王道』 に通じる物があると思えます。

  かつてのヨーロッパや日本の帝国主義は明らかに覇道型ですし、ソ連も覇道型でした。 アメリカは王道型として慕われた時期もありますが、ベトナム戦争以降は、すっかり覇道に染まってしまいました。 栄えているかどうかは、王道・覇道の違いとは関係がないのです。 アメリカがあれだけ大きな国力を持っていても、「アメリカ合衆国に新しい州として加盟したい」 という国はありませんが、それが王道型でない証拠です。 それに対し、EUに加盟したいという国は引きも切らず、行列が出来ている有様です。 帝国主義理論に則れば、弱肉強食は世の習いですから、王道型国家など絵空事という事になりますが、EUを見ていると、王道が現実に存在する事を認めざるを得ません。 かつて帝国主義が最も盛んだったヨーロッパで、現在、王道が実践されているのは、実に面白い現象です。

  さて、トルコの加盟問題が、なぜ重要なのかというと、EUの 『王道』 がヨーロッパだけで止まるか、地球全体に広まるかの分かれ目になっているからです。 トルコ加盟の最大の障碍になっているのは、トルコがイスラム教国だという事です。 EUは、経済共同体から発展してきた組織ですから、本来、宗教とは無関係なのですが、現加盟国のすべてがキリスト教国である為に、EUを 『キリスト教連合』 と捉えている人が多いのです。 『ローマ帝国の現代版』 と考える人もいますが、それならば、トルコはもちろん、中東・北アフリカ諸国も加盟資格がある事になります。 やはり、トルコを入れたがらない理由は、宗教の違いにあるのでしょう。

  EUは紆余曲折を経て成立したので、設立理念がはっきり示されていないのですが、最初の大目的が、戦争の防止であった事だけは疑いありません。 互いの国の独立性は保ちつつ、利益を共有できる部分を一体化する事で、徐々に国境を無くしていけば、戦争など起こらなくなるという理屈です。 しかし、もしそれが設立理念だとしたら、トルコの加盟申請を拒否するのは、矛盾した態度という事になります。 域内で国境がなくなっても、トルコとの間に国境があるのでは、ただ、国境線が移動しただけで、新たな戦争の芽を育てる事になりかねません。

  ロシアも、EU加盟を打診した事がありますが、フランスとドイツは難色を示しました。 ロシアは、キリスト教国ですから、加盟させても 『キリスト教連合』 としてのEUを損なう事にはなりませんが、人口が多過ぎる為、フランス・ドイツの主導権が著しく低下してしまう事を心配しているらしいのです。 しかし、これは、トルコ問題以上に矛盾した態度と言えます。 ロシアとの間に国境が残ったら、冷戦時代と何も変わりません。 小さな戦争の芽を摘んで、大きな戦争の芽を育てているようなものです。

  もし、トルコの加盟が実現すれば、EUは宗教のハードルを越える事になります。 もし、ロシアが加盟すれば、EUは主導権争いのハードルを越える事になります。 この二つの問題を解決できれば、EUは、『Eurasian Union』 にも、『Earth Union』 にもなれるでしょう。 逆に 『European Union』 に固執すれば、将来、ヨーロッパ以外の地域との大戦争が起こっても少しも不思議ではありません。 EUの指導者達や民衆一人一人は、自分達が作っている組織が、どれだけ大きな可能性を秘めているかをよく考える必要があると思います。

  日本の識者の中に、「EUに対抗して、東アジア連合の設立を目指そう」 と言う人がいます。 一見まともな意見のように聞こえますが、その実、全くお話にならないほど馬鹿げた発想だと思います。 「戦争防止の為に国境をなくそう」 というEUの理念とは、正反対もいい所です。 『大東亜共栄圏』 と何の違いもありません。 もし、ロシアが加盟したら、EUは北海道の直ぐ上まで来るわけですが、対抗しようなどと考えるより、現在のトルコ同様、どうやったら加盟できるかを考える方が遥かに有意義です。 対抗して、何の得があるんでしょう? もっとも、EUがヨーロッパで止まってしまえば、それまでの事ですが。